とある王女の書評空間(ラノベレビュー)

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ラノベ評論家が必要とされない本当の理由

またもや「ラノベ評論家必要論」が語られているわね。

 

 

ラノベが売れないのは評論家が育ってないせい? 

必要論が語られるのはこれで二回目。

前回は『異世界誕生 2006』が「迷惑系まとめブログ」に取り上げられたことを講談社ラノベ文庫のシゲタが好意的に扱ってしまい、売上一辺倒な評価軸への批判として「評論家必要論」が上がったわ。

 

togetter.com

 

  

確かにまとめサイトはなろう系を茶化す傾向にあるけど、出版だってボランティアではない以上利益を上げるのは大事なわけで、「なろう系を茶化さないけど読みも買いもしない人間」に向けて宣伝しても時間の無駄でしかない。

なろう系、特に単行本を読んでいるラノベ読みの割合は低く、このラノ協力者であっても「単行本部門無投票」なんてのは普通にいたくらいだし。

多分なろう系を好む層は従来のラノベを好む層とあまり重ならなくて、そう考えると売る側としてはブランド好感度が多少低下してもより多くの人間に作品を認知してもらえるような施策(作品作り)を選ぶでしょうね。

 

自社のブランドについて好ましいと思われていようが思われていまいが、ビジネスにおいて重要なのは「ブランドの好感度の高い人ほど購買金額が多いのだろうか?」という点である。逆に、嫌われていようが何だろうが、長期的な売上が変わらないのであれば別にそれは問題ないと考えてもいい。憎まれっ子として堂々と世にはばかるという経営的な判断があってもいいはずだ。

(『統計学が最強の学問である』)

 

実際この手法は結果を出してて、例えば「俺の魔法の威力がおかしいって、弱すぎって意味だよな?」で有名(つい最近も『豚のレバーは加熱しろ』でパロられた)な『転生賢者の異世界ライフ』はシリーズ累計一五〇万部突破してる。

 

 

けれど売上で評価するラノベ界隈への不満は相変わらず存在するようで、ライトノベル史に関する議論をきっかけに、評論家必要論が再び浮上してきたわ。

 

togetter.com

 

「売上は低かったが面白い作品」の発掘が必要なことは同意するけど、別にそれは「職業評論家」の専売特許じゃないわ。

Twitterで感想をツイートしたり、ブログでレビュー記事を書いたり、Youtuberになって動画で紹介したりと、「普通の読者」にできることだって数多くある。

しかも今年は『このライトノベルがすごい!2021』で九年ぶりに協力者が募集され、六〇人の応募があったほど。更にアンケートの回答数は一万を超えるなど、かつてない程に盛り上がってるわ。

 

 

 

そういう意味で売上以外の評価軸は存在するし、評論の需要だってまだまだある。

 

評論家が嫌われるのは、コミュニティへの敬意を払わず土足で踏み込むから

けれど評論家必要論を唱える人間はそういうコミュニティを考慮せず、まるで存在しないかのように扱う。

 

 

TwitterやブログやYoutubeこのラノは「数字が評判に追いついて来ない作家を盛り立てる仕組み」ではないらしい。 

結論から言ってしまえば、「ラノベに評論家が必要だ」という言説が支持されない理由は、そういうことを語る人間が上記のように既に存在する読者コミュニティを無視(あるいは「専門家じゃない素人の評論だから」と無価値認定)し、「あいつらなんかより俺達の意見を聞け」と言わんばかりの独善的な主張をしているからに他ならないわ。

更にタチが悪いのは、そうした人間に限って最近のラノベやウェブ小説をあまり読まないのに口を出し、土足でコミュニティに踏み込もうとしてくることね。

 

 

先に挙げたTogetterのまとめを見てもらうと分かるように、「評論家必要論」を唱える人間はとにかく古い作品の話が多い。

もちろん、歴史を論じる上で古典に言及すること自体は必要かもしれないけど、ラノベは過去の遺物ではなく今日まで連綿と続いてる文化なわけで、「現代のラノベを語るなら古典だけ知ってれば十分」というわけでもないでしょ。

スレイヤーズが~」「ロードス島戦記が~」「マルドゥック・スクランブルが~」と昔の作品を語る一方で最近の作品にはほとんど触れないため、今の世代の人間からすれば「俺達の読む本に興味を持とうとしない人間が、何偉そうに今のラノベ業界を語ってるんだ!」と反発したくなるのは確実だわ。 

古典を引き合いに出して昔語りをされ続けるのはウザいことこの上ないのだけれど、加えて厄介なのが、この手の論者は往々にして(ハード)SFとの親和性が高い(例えば、冒頭にツイートを引用したnakatsu_sこと中津宗一郎はSFの編集をしてる)こと。

 

 

 

 

そもそも、「歴史的植民地化」なんてしなくていいのが問題。

逆である「ライトノベル者から見たSF史」なんてないでしょ。 

では何故「歴史的植民地化」が行われるかというと、おそらくSF者のラノベに対する歪んだ選民意識が理由でしょうね。

(ハード)SFは緻密な理論を基に世界を構築していくため、作者にも読者にも高度な科学的リテラシーが要求される。とすると、どうしてもコミュニティへの参加者は限られてしまう。いいか悪いかは別として。

一方でラノベには緻密な理論が要求されず、いわゆる「ゲーム的世界観」でも書籍化は可能であり、しかも『このすば』の暁なつめ先生のように、ニートから億万長者となった作家もいる。コミュニティへの参入障壁が低い。

そうした「高学歴の文化」であるSFの人間にとって、「低学歴の文化」であるラノベが若者世代から注目を浴びている様子を見ていると、まるで知性を侮辱されたかのようで我慢ならなかったのかもしれない。

あるいは、「ラノベの世界観はSFと比べて『劣っている』から、我々が啓蒙して『優れた作品』にしてあげよう」とでも思ったのかもしれない。

 

けれど「理論の緻密さ」というのは絵画における写実性みたいなもので、作品を評価する上での一つの基準に過ぎないわ。

全ての絵画を「写実的か否か」だけで評価するのが愚かであるように、全てのラノベを「理論が緻密か否か」だけで評価するのもまた愚かよ。 

相手へのリスペクトを欠いた「自文化中心主義」的な振る舞いでハードSFの基準を他作品・他コミュニティにも適用し、それを批判されると外部に責任転嫁してしまうのが嫌われる要因なのであり、決して「コンプレックスを抱えているから」ではない。

 

 

  

結局のところ「ラノベにも評論家が必要だ!」という主張の動機は、「売上が低迷しているラノベ業界を救いたい!」というものではなく、「SF(あるいは古典や純文学)の基準でラノベの良し悪しを判断しよう!」という他文化侵略の正当化に過ぎない。

 

 

 

そうした意見を聞き入れてラノベ評論に権威を持たせたところで「なろう系ばっか読んでないで古典も読もう!」「ラノベばっか読んでないでSFも読もう!」と悪質な布教活動にラノベを利用されるのがオチでしょうね。

 

togetter.com

 

togetter.com

  

ラノベに評論家が必要だ」と語る人間は、評論家として相応しい人物じゃないわ。

「侵略者」にオールを預けたがるラノベ読者が、果たしてどこにいるのかしら?

 

おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

TOKIO『宙船』)

 

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