とある王女の書評空間(ラノベレビュー)

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【#ラノベ定義論スペース】ラノベ定義論に蔓延するリベラル信仰とポリティカル・コレクトネス【参加者必読】

今夜九時、Twitterラノベ読みが激論を交わす……との噂。

 

 

ラノベの定義を大々的に議論する初めての場だからか、あるいは平和(ストレートエッジ所属)や岡田勘一(このラノ編集)といった有名編集者が名を連ねているからか、それとも「そもそも存在しているのか?」と実在の疑われていたmizunotoriがスピーカーとして参加するからか、いずれにせよこれまでにない盛り上がりを見せてるわ。

まあ、あたしはTwitterアカウント持ってないから参加できないんだけど。

 

  

 

もっとも、スペースを覗くまでもなくどういう結論に達するかは見当が付く。

何が起ころうと「屍山血河の死合舞台」とはならないだろうし、「ころしあえー」と煽ったところで「ラノベと非ラノベの境界線は曖昧だよね」「やっぱりラノベかどうかはレーベル(あるいはパッケージ)で定義するべきだよね」「うんうん、ラノベ特有の内容なんて存在しないよね」となるでしょうね。スペースが始まる前から結論は既に決まってるんじゃないかしら。 

なぜならラノベ界隈(だけじゃないけど)には「リベラル信仰」というイデオロギーが蔓延しており、「ラノベと非ラノベでは内容に違いがあるかもしれない」というのは、たとえそれを示唆するだけだとしても重大なタブーとなるのだから。 

 

リベラル信仰とは山口真由の言葉を借りれば「全ての人間は平等である」という信仰のことなのだけれど、これだけでは誤解を招くかもしれないわね。

ここで言う平等とは「法の下の平等」のような制度の話ではなく、「人間に生まれつきの違いは存在しない」という生物学的な意味よ。

 

  人の間の平等という「リベラル信仰」は、人の間の生来的な違いを宗教的なタブーにまで格上げした。人には生まれながらの差があるという研究結果は発表しにくくなった。確かに、生まれつきの違いなどないのかもしれない。そうであったとしても、生物学的、遺伝的、環境的なあらゆる可能性をオープンに研究し、闊達に議論し、そして人間には差がないという結論にたどりつくという過程を無視してはならない。「臭い物には蓋を」という理念で、なんとなくそこにあるかもしれない違いには目をつぶってやりすごす体質――「リベラル信仰」によって生まれたこの空気は、アカデミズムから自由な論争と難問の突破口を奪ってしまったのではないか。

(山口真由『リベラルという病』)

 

自由な論争が奪われているのはラノベ界隈も一緒。

 

ラノベ定義論では、現在に至るまで2つの説が主流になっているわ。

1つはレーベル説――ラノベかどうかは出版レーベルで決まる――と、もう1つはパッケージ説――ラノベかどうかはイラストの有無などパッケージで決まる――ね。

どっちが正しいのかって? どっちも間違ってるわ。

 

例えばレーベル説だけど、ラノベ(とされているレーベル)の賞と一般文芸(とされているレーベル)の賞で作風が同じなんてあり得るかしら? なわけないでしょ。

パッケージ説も同様。WEBからの書籍化作品に関して、WEB版はイラストが無いからラノベで、書籍版はイラストがあるからラノベなの?

つまり、ラノベかどうかを決めるのはレーベルやパッケージといった「外面」ではなく、内容という「中身」であるべきなのよ。

 

けれどレーベル説もパッケージ説も、あたし以外のラノベ読みに批判されることはほとんど(と譲歩したけど、他のラノベ読みがレーベル説やパッケージ説を批判してるのは見たことない)ないと言ってもいいわ。

なぜ根拠薄弱なこれらの説が批判を受けずに生き残っているかというと、リベラル信仰を正当化する上で非常に相性がいいからね。

 

もしラノベと非ラノベが内容で分類できると認めてしまえば「内容が違うのなら、読者層も違うのではないか?」という問いを否定するのが難しくなる。

読者層が違うのであればラノベ読者には陰キャが多いのでは?」といった「差別的なステレオタイプ」や「異世界ものが売れるのは現実がつらいからでは?」といった「雑な社会反映論」を一概に切り捨てるわけにいかなくなるわ。

要するに、レーベル説やパッケージ説は「政治的に正しくない問い」を封殺するためにでっちあげられたイデオロギーでしかないのよ。

 

このイデオロギーによって、これまでに何度うんざりさせられてきたことか。

今はマシになったけれど、数年前は「ラノベには一人称が多い」「ラノベには異世界が多い」と最近のラノベに何らかの傾向を主張しようものならmizunotori(定義論スペース企画立案者であり、「定義ならば変化しないはずです」という馬鹿げた理屈を持ち出した元このラノ協力者)とラノベ天狗(自分は一切データを出さず「雑語り」とツイートするだけしかできないツイッタラ)に毎回批判されてたのよね。

 

レーベル説やパッケージ説を支持するというのは「私は人間に生物学的、遺伝的、環境的な違いは存在しないと思います」と主張するのと同レベルに狂っている。

 

他にツイートを見て思ったこと。

 

 

 

これだけなら賛成するのだけど、いちせはライトノベルの定義で「きっちりくっきり線を引こうと思ったら、最近定番になりつつある『ライトノベルレーベルから出てるのがライトノベルです』って定義が、ベスト?」と、菊地もhttps://twitter.com/snowillusion/status/1305736672819073024で「『ライトノベルレーベルで出ていること』は『十分条件』と同義である」と内容の違いに言及しようとしない時点で、あたしからすればどちらも思考停止であり同じ穴の狢よ。

 

リイエルは内容に言及してていいんじゃないかしら。

スペースでレーベル説やパッケージ説を批判してくれるのかは知らないけど。

 

 

久しぶりの記事がラノベレビューじゃなくて毒舌満載のラノベ読み批判になっちゃったけど、こうでもしないと何も変わらないしね。 

さて、タブーを恐れず議論できる参加者は果たして存在するのかしら?